五重塔建立逸話
桃栗三年 下準備五年
始まりは若い衆の何気ない一言でした。
「宮大工は別名堂塔大工。塔を建てずして宮大工とはなんぞや。」
宮大工ならば、登山家のように一生に一度は挑んでみたいものが五重塔です。
それから五重の塔への挑戦が始まりました。
白井大工にはそれまで五重塔の経験がなく見聞を広めることから始めました。
まずは当時、かの法隆寺宮大工棟梁であった西岡常一氏(故人)の元へ伺い、塔における木の癖、組み方、道具など御高説を賜りました。
さらに毎年の社員研修旅行には五重塔のある地を選び、実物を見ながら思案を重ね、年月をかけながら材料である檜も揃えてゆきました。
気がつくと、五重塔建立の下準備に5年の歳月が過ぎてゆきました。
やがて機会が訪れました。氷見網元の社長様より
「思うところがあり奈良薬師寺の三重塔のような塔を建てたい」
とお話を伺いました。
詳しく伺うと、若くして早世された跡取りの供養、ならびに氷見活性化のためということでした。
私どもは社長様に、故あって五重塔建立の準備をしていたことと、五重塔への宮大工としての情熱を語り、それが社長様の思いと合致し、当時塔の実績が無かった私どもに機会を与えて頂くとともに、五重塔の図面に、
「幾千歳(いくちとせ) 風雨に耐えし 白井の塔
こうありたいや 漁人(すなどり)の里」
と毛筆自筆で書かれました。そこには私どもへの期待とともに、氷見の里への愛情が込められていました。
その後私どものところへ残念な悲報が届きました。
不慮の事故で社長様が亡くなられたということでした。
この自筆図面は掛け軸にされ後日奥様が拝見された際に、亡き社長様の強い思いを読み取られ、五重塔の完成こそが自分に課せられた使命であると決意されたそうです。
もとより一世一代の仕事と決意して臨んだことですが、社長様の執念も私どもに預けていただき施工に挑みました。
建築基準法の壁
現在の日本には、耐震など安全な建物をつくるための基準が法律で定められております。 歴史建造物の再建などは、例外として認められるケースがありますが、この五重塔は全長22メートルの民間新規建築であり、当時の法律では全長13メートルを超える木造建築は認められておりませんでした。
つまり、法律基準を超える五重塔を建立するためには、当時の建設大臣(現国土交通大臣)の許可が必要だったのです。
その為には、設計に対しての検証に当たる構造計算が必要であり、私どもは東京大学をはじめとする各大学の教授陣で構成されるグループに構造計算をしていただきました。
設計、検証、議論を何度も繰り返し八百年に一度の大地震でも大丈夫との解析結果をいただき、無事大臣の許可を頂戴するに至りました。
五重塔は日本各地にございますが、その建立となるとなかなか機会があるものではございません。
また社寺や仏閣等と比較しても建築の難易度が非常に高くましてや、一人の力だけでは建立が不可能な代物でございます。
宮大工個々の技術が磨かれていることはもとより、人と木に対して真摯に向き合う心、さらに一緒につくる仲間とのチームワークがあって初めてスタートラインに立てるのです。
だからこそ宮大工一生の仕事として挑戦する価値があるのです。